桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った人はその後出世したのか
敵総大将討ち取った大殊勲者、その後は名前を聞かないのだが
天下獲りの為に京の都を目指す駿河の大大名、今川義元の2万5千の軍勢をわずか3000の兵で討ち取った尾張の織田信長(兵数については諸説あり)。今川義元を斬ったのはもちろん織田信長ご本人ではなく、織田方の武将です。お名前をご存知でしょうか?
毛利 良勝と服部一忠です。義元に最初に斬りかかったのは服部一忠でしたが反撃を受け膝を負傷、そこに助太刀したのが毛利良勝でした。毛利良勝が今川義元を斬ったのですが、この時指を食いちぎられたという話があります。
まず、今川義元も非常に優れた人物だったということ
武士なのに公家の趣味があり、お歯黒までしていたという今川義元ですが、決して無能な戦国大名だったわけではありません。海道一の弓取りと呼ばれた、内政外征ともに優れた人物です。桶狭間の戦いでは、多勢の中無勢の織田軍相手に油断があったのでしょうけど。
その後の2人はどうなったのか
左が毛利良勝、中央下に今川義元、右下に服部一忠
毛利良勝
もともと織田信長の馬廻または小姓だったというどちらにしろ、武芸の面でも優れた人物ですね。さて、亡くなったのは本能寺の変の時なんです。織田信長に付き従い京に滞在しており、本能寺の変で織田信長が討たれた後に明智軍が二条御所の織田信忠を攻めますが、この時に二条御所に立て篭もり討ち死にされております。
服部一忠
信長の死後も生き続け、豊臣秀吉に仕えております。従五位下の朝廷の官位まで授かり、対後北条氏の小田原征伐にて功をあげて伊勢の国の松阪城3万5千石の領主となります。しかし、のちに秀吉に切腹を言い渡される豊臣秀次の配下につけられたため、秀次失脚の際連座されて切腹を命じられております。
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