姜維の北伐は、どのような結果になったのか?

2019年2月24日

三国志演義での諸葛亮の行った北伐のように、詳しい記載がない姜維の北伐とは?

三国志演義において、諸葛孔明の行った北伐に関しては詳しく記述があるものの、三国志演義での姜維の北伐は、失敗をしたこと以外あまり詳しく書かれておりません。諸葛亮死後、姜維を中心に蜀は北伐を続けておりますが、一体その結果どのような成果をあげ、どのような損失があって、263年蜀漢滅亡となったのでしょうか。正史にある姜伯約の北伐について見てみましょう。

姜伯約

253年、費禕が殺害され、姜維が軍権を握る

三国志演義で、諸葛丞相が危篤の床にあるとき、丞相亡き後誰に国を任せればよいか尋ねられた時です。孔明は、「蒋琬を」と答え、「蒋琬亡き後は?」の問いには「費禕を」と答え、「費禕亡き後は?」と問われて何も答えなかったという話があります。その費禕が、魏の降将であった郭循に刺殺されてしまいます。費禕亡き後は姜維が軍権を握り、いよいよ北伐へと動き出すことになります。

254年 魏の三県を制圧
255年 夏侯覇とともに魏の王経と戦い大勝
256年 この功績により、姜維が大将軍となる。段谷で鄧艾に大敗する。自ら後将軍に降格する。

257年、諸葛誕の乱に乗じ、再び北伐へ

257年 魏の諸葛誕が反乱を起こす。乱に乗じて魏へ侵攻開始するも勝てず。
258年 諸葛誕敗死する。姜維も兵を撤退する。姜維が大将軍に復任される。蜀国内で数少なかった北伐擁護派だった陳祗が亡くなり、姜維が孤立する。

262年、4年ぶりに北伐再開する

しばらくの間、漢中の守りを固めていた姜維でしたが、最後の北伐に出征するもまたしても鄧艾によって失敗させられました。姜維は北伐の間に国政を顧みることなく、あの悪名高い宦官黄皓劉禅に重用されることになります。
姜維は黄皓を除くよう進言しますが、聞き入れられず、それどころか諸葛亮の子である諸葛瞻董厥といった人たちも北伐に反対しており、強引に北伐を敢行する姜維は成都では身の危険にさらされて、成都に戻ることもできなくなってしまいます。
そして263年、とうとう蜀漢は鄧艾に降伏して滅亡しました。

蜀漢滅亡後の姜維について

蜀漢滅亡後も姜維は蜀に劉禅を迎え入れ、蜀漢を再興しようと画策します。まず、魏に反旗を翻す意図のあった鍾会に近づき、魏から独立させます。計略により鄧艾に謀反の動きありと見せ、魏に鄧艾を殺させます。成都にいる魏の将と鍾会も殺害して劉禅を迎える予定でしたが、計画は露見してしまい、264年3月3日、失敗して殺害されました。享年63歳、最後まで蜀漢に尽くし、諸葛亮の意思を受け継いで焦りもみせていたのでしょう。