鎌倉幕府の4代目以降の将軍は有能な人、将軍らしいことした人いないの?

2018年9月22日

鎌倉幕府の源氏将軍は3代限り、その後も将軍は存在している

私の時代は1192(いいくに)創ろう、鎌倉幕府と習ったものですが、現在では鎌倉幕府成立は1185年で「いい箱作ろう鎌倉幕府」と習うらしいですね。鎌倉幕府が箱を作ってどうするのでしょう?鎌倉幕府の初代将軍は源頼朝、2代将軍は源頼家、3代将軍は源実朝です。ここまでは覚えている人も多いでしょう。源氏将軍といわれる、源氏の血筋です。その後の幕府は、北条氏による執権政治になりますね。執権政治といっても、将軍が存在したわけです。

摂関家や天皇の子から、将軍を迎えておりました。

北条氏が将軍になれないのか?なぜ将軍が必要だった?

北条氏はもともと、地方の小豪族。ですから、将軍になれる家柄ではなかったわけです。それで、宮将軍といわれる、公家出身の将軍を京から迎えておりました。その理由は、将軍がいることで幕府の面目を保つためで、やっぱり幕府として命令を出すには官位とかそれなりに高い人(三位以上)じゃないとだめらしいです。

あと、後醍醐天皇による建武の新政以降も、この宮将軍は2代おられますが、こちらはそれなりに実権があるお方でしたので、今回は省略させていただきます。今回は、執権北条氏の時代だけで4名の将軍を調べてみました。

伝源頼朝像
伝源頼朝像。だが、現代では別人と認定されている。

鎌倉幕府の宮将軍の功績

4代将軍、藤原頼経

1226年~1244年の18年以上も将軍でした。北条義時、政子兄弟に迎えられた傀儡将軍でした。ですが、官位があがってくると傀儡であることを嫌い、次第に執権に歯向かってきます。反執権勢力と結び、執権北条氏を失脚させようとした動きが察知されて京都へ送還されます。自分は武士の棟梁であるという思いを持っていたのでしょう、執権のいいなりになっていた飾りではなかったようですね。

5代将軍、藤原頼嗣

1244年~1252年まで将軍でした。わずか6歳で将軍になりました。武芸や帝王学を勉強し、本人も勉強熱心だったそうです。1251年に謀反に関与していたとされ、14歳で将軍職を解任されております。そして18歳と若くしてお亡くなりになりました。

6代将軍、宗尊親王

1252年~1266年まで将軍でした。将軍になっても何ら権限はないので、和歌に打ち込むことになりました。歌会を何度も催し、御家人出身の歌人を輩出しました。1266年に、こちらも謀反の嫌疑をかけられ、将軍を解任されております。将軍らしいことはしておりませんが、文化面で多才ぶりを発揮しております。

7代将軍、惟康親王

1266年~1289年まで将軍でした。なんと、この親王は源氏姓を与えられて源惟康と名乗っています。それは当時、元の襲来(元寇)があったからです。元に勝利するため、御家人の結束力を高めるために利用されたらしいです。しかし最後は追放されて、京に戻るときは身分の低い武士にまだ引っ越しの身支度が整う前に館を取り壊して、乗り物には逆さまに押し込められて、泣きながら京都へ向かったそうです。ですが63歳で死去と、他の将軍が若くして亡くなっているのに比べ当時では長寿でした。