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馬謖は最悪の場合、街亭での敗戦の責任を恐れて逃げ出していた説もある

馬謖

泣いて馬謖を斬るの故事で日本でもおなじみの馬謖

諸葛亮が泣いた理由について、正史と演義では違う

馬謖、字は幼常(190~228年)は、劉備が荊州にいた時からの劉備軍の幕僚です。劉備には死の寸前に口先だけの男だから重用してはならないと言われてますが、諸葛亮からは軍略を語り合える相手として重用され続けます。また、三国志演義の後半の名場面、孟獲を7度捕らえて7度開放する策を進言したのも馬謖で、「城を攻めるは下策、心を攻めるは上策」と諸葛亮に進言しています。後に諸葛亮が北伐を行った際、街亭の守備を任された際に諸葛亮からの軍令を守らず、副将王平の諫言も聞かず、山頂に布陣。結果魏将張ゴウに水源を断たれた事で敗北します。ここまでは皆さまご存知かと思います。

その後、諸葛亮が馬謖に対して斬首を命じ、馬謖は軍令に則り斬首となるわけです。諸葛亮は悲しみの涙を流し、軍令を守る為に有能な者でも処罰しなければならないという故事、泣いて馬謖を斬ると言われています。この涙の訳が、正史三国志と三国志演義では違ってます。

正史三国志では、現代に伝わる意味通りの理由で涙を流します。つまり、馬謖を偲んで流した涙ですね。三国志演義では、先帝の臨終の際、馬謖を重用するなと遺言されていたにもかかわらず馬謖に重要な仕事を任せた自分の責を嘆いています。これは三国志演義を読んだ方なら勘違いしやすいかも。現代の泣いて馬謖を斬るの意味は、正史準拠の馬謖の才能を惜しむということですね。

敗戦の馬謖、父と慕った丞相に敗戦の報告後、家族を託して刑場へ潔く向かった?

馬謖は家族を諸葛丞相に託した後、潔く斬首となるのが三国志演義の名シーンです。これは、諸葛亮伝・王平伝に記載された内容です。しかし他には、牢に入れられて、獄中で亡くなったという記載があるのが馬謖伝です。なお、死亡した理由はわからず、病死なのか自害なのかも記載からはわかりません。

更にもう一つ、向朗伝にも記載があり、それによると馬謖は敗戦の責任で罰を受けることを恐れて逃亡したとあるのです。

処罰を恐れて逃亡した説

向朗は日頃から馬謖と仲が良く、獄に繋がれた馬謖が逃亡した際に情をかけて見逃したとあります。向朗はこの責任で免職されています。馬謖は逃亡するも結局捕まり処刑されてしまいます。このような馬謖に涙を流した諸葛亮だったというものです。向朗は後に許されて、出世しています。この向朗伝の記載が事実であったならば、実は馬謖は敗戦の責任の罪、恐らく死罪を恐れるあまり逃亡するという良く知る潔い最期を迎えた馬謖とは違う人物だったということになります。また逃亡すれば兄である馬良、妻子にも罪が及ぶ可能性があったのではと、考えられますよね。自分の責任で多数の将兵を無駄死にさせ、自分だけは生き長らえる、そんな将の器ではない馬謖だったというのは個人的には間違った説だと信じたいところです。

正史三国志の著者、陳寿の父は馬謖の参謀だった

正史三国志の著者、陳寿の父は馬謖の参謀であり、実は街亭の戦いの際に王平と共に副官を務めていました。王平は、諸葛亮から敗戦の中でも高い評価を受けておりますが、陳寿の父は馬謖と連座して命はとられてませんが重刑に処されています。正史三国志の記述の際にも何かしら父に対する含みがあったのかも知れませんね。

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