名将趙雲の子は、趙雲の墓を守っていただけなのか?

2018年8月26日

趙雲の子、趙統と趙広兄弟

趙雲像

正史では、趙雲の記述自体少ないのですが、その子趙統・趙広の事となると、もっと少ないようです。
趙統の生没年は共にわかっておりません。趙広の生年は不明で没年は263年です。

三国志演義での趙統と趙広

三国志演義での登場は、白い喪服で現れ、父趙雲の死を劉禅と諸葛亮に報告したというたったこのワンシーンのみです。それ以降、三国志演義には登場しません。

正史での趙統と趙広

正史では、趙統と趙広は父趙雲が眠る錦屏山の守りにつきます。趙雲の墓を守っていたということです。趙統に関してはほとんど分かっておりません。趙広は、姜維と共に戦っており、蜀が滅亡した263年に戦死しております。弟趙広は蜀の滅亡に殉じた形になっております。蜀の主要人物でその子が蜀の滅亡に殉じたといえば、諸葛亮の子諸葛瞻と孫の諸葛尚が有名で、横山光輝三国志でもちょっと触れていますからこちらは知っていても、趙雲の子も殉死していると知らない人も多いかと思います。

KOEIのゲームでは、シリーズ通じて武力60から70の評価が多いはずで、晩年の蜀において戦場で戦ってもらうことになる兄弟ですが、この評価値は完全に父趙雲がすごいのだから最低でもこの位の力はあったのではないかという推量ですね。

正史の三国時代で他の有名武将の子はどうなのか?

関羽

関平 実の子だが、長男なのか生まれた順番は不明。ご存知だと思いますが、蜀滅亡よりだいぶ前に戦死しております。
関興 20代で病死してしまい、余り活躍できなかったようです。
関索 人気のある人物ですが、架空の人物です。

張飛

張苞 20歳ぐらいで病死し、戦場に出たことがないそうです。
張紹 蜀の文官。鄧艾に降伏の書簡を届けた人物です。

こうしてみると、三国志演義で関羽、張飛の子はそれぞれ活躍したという架空の逸話をいただけたのに、趙雲の子は何か不憫ですね。