正史三国志、三國演義で、義兄弟なのに仲が悪い武将とは

義兄弟のイメージ崩壊、仲が悪い義兄弟2選

正史三国志、三国志演義で義兄弟になった武将たち

三国志の義兄弟

まず最初に思い浮かぶのは、圧倒的に劉備関羽張飛の義兄弟ですよね。三国志の義兄弟というより、ただ義兄弟といっても最初に思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。三国志演義の漫画、ドラマ等でも最初に描かれる場面になる事も多いですよね。桃園にて、3人が同年同月同日に死ぬと誓う劉備旗揚げ時の名場面です。ThreeKingdomsでは、途中から劉備が趙雲を加えて我ら四兄弟とも言っています。他に出てくる義兄弟が全て2人での義兄弟なのに対し、3人以上の義兄弟は彼らだけになると思います。

この桃園の誓いで有名な義兄弟、ただこれは三國演義だけの話しです。正史三国志では義兄弟になったという記述がありません。

その他、仲の良かった義兄弟

孫策と周瑜

小覇王と呼ばれた孫策と、美周郎と呼ばれた周瑜の義兄弟。この二人、同じ年齢の義兄弟です。三國演義では周瑜は義兄孫策亡きあとも、孫策の実弟である孫権をよく補佐し、赤壁の戦いでは曹操の大軍を火計にて撃破するなどの活躍で呉の礎を築いています。義兄弟となってからは大喬小喬姉妹を同時に娶っております。二人とも若くして亡くなってしまいましたのが残念ですね。

関興と張苞

三国志演義では、関羽の子関興と張飛の子張苞も義兄弟の契りを交わしています。初登場時は夷陵の戦いでした。二人の父の仇国、呉を討つ戦いです。先鋒を争った二人は劉備に窘められ、父に倣い義兄弟となります。父たちは関羽が次兄で張飛が末弟でしたが、この2人は張苞が義兄、関興が義弟になります。その後2人とも父の仇討ちを果たすことができます。共に戦場で助け合う場面もありますが、2人とも若くして亡くなります。もっと生きていられれば、後の孔明の北伐でも活躍できただろうに残念ですね。ただ、正史ではさらに若く亡くなっており、2人とも戦場で大きな活躍はできぬままになっております。

何の為に義兄弟になったの?仲の悪い義兄弟

韓遂と馬騰

西涼の韓遂馬騰も義兄弟になっています。最初は意気投合して仲が良かった2人でした。しかし段々お互い争うようになっていきます。そして韓遂が馬騰の妻子を殺害して二人の仲は修復不能に。最後まで和解できぬままになった義兄弟でした。

三国志演義では、馬騰の子馬超が曹操を討つために挙兵した際に韓遂が協力します。かつて父の馬騰と義兄弟だったということから、韓遂を義理の父とも呼んでいた馬超でしたが、曹操の計略によって二人は仲違いをします。こちらは義理の親子になりながら、最後は仲が悪くなったと言えましょう。

趙範と趙雲

赤壁の戦い後、劉備は南荊州を支配するために軍を動かします。桂陽の太守趙範に攻撃を仕掛けたのが劉備軍の将軍趙雲でした。かなわぬと判断した趙範は降伏を決意し、新しく桂陽に入った趙雲に近づこうとします。二人の姓は同じ趙で、出身地も同じということで趙範は趙雲に義兄弟となる事を願い出ます。趙雲は承知し、義兄が趙範で義弟が趙雲となります。趙範は亡き兄の未亡人を趙雲の妻にするよう提案しますが、これに趙雲が激怒します。趙範からすれば好意で勧めたのに、趙雲の態度が気に入らず、二人は仲違いします。趙雲からすればまだ降ったばかりだった趙範を信用しきれなかったようです。趙範はやっぱり魏に逃亡してしまってます。

正史でも演義でも記述されていることで、内容はほぼ同じです。演義の作品では、怒った趙範が趙雲を殺そうとして返り討ちに会って再度降伏したりも。私の考えですが、これって中国史上でも稀にみる義兄弟の絆短命記録になるのではないでしょうか。義兄弟の固い絆が1日もあったのかどうか?

実の兄弟でも争うし、義兄弟の絆は固いとは限らないという結論

こうみると、今までの義兄弟のイメージは随分変わりませんでしょうか。まあ、実の兄弟でも争う場面はあるし、もともと血縁の無い義兄弟や義理の親子では後に争う事になるという事もあって然るべきなのかも。他にも作品によっては義兄弟の契りを行っている武将はいますね。例えば顔良文醜姜維鍾会など。何か他にご存知でしたらコメントにてお教えいただければ幸いです。