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鞆幕府、足利義昭が京都から追放された後の亡命政権11年間まとめ

足利義昭

副将軍に毛利輝元、追放されても征夷大将軍の義昭が鞆の浦(とものうら)で幕府を開く

室町幕府最後の将軍、足利義昭が中国地方、今の広島県で幕府再興を目指す

1573年、室町幕府第15代将軍足利義昭は、織田信長との戦いに敗れて京都を追放されました。これにより一般的には、室町幕府の滅亡、室町時代終焉とされているようですが、義昭はまだ幕府再興をあきらめていませんでした。室町幕府の次の幕府は江戸幕府、いえ、その間にもう一つの幕府があります。それは鞆幕府(ともばくふ)です。頂点は、れっきとした征夷大将軍であります。副将軍に毛利輝元が就き、織田信長政権と比べても拮抗した勢力を持っていました。

信長は、義昭追放した後も、征夷大将軍の位を朝廷に求めることもなく、また朝廷も積極的には義昭に対して征夷大将軍を解任しようとはしませんでした。足利義昭は京都を追われた後も1588年まで征夷大将軍でした。1573年から後の義昭の生涯、既に40歳だった足利義昭。この時代は、人間五十年、人生最後の勝負として挑んだ、鞆幕府について詳しく調べてみようと思います。


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鞆幕府、足利義昭。公方様、40歳からの挑戦。広島県にあった、教科書に載ってない幕府。副将軍に毛利輝元が就任。日本の戦国時代の政権。


足利義昭公

戦国時代といえど、戦には大義名分が必要

1573年槙島城の戦いで、織田信長に降伏した足利義昭ですが、自身が殺される事はないという確信があったようです。もし、信長が義昭を亡き者にしてしまえば、将軍殺しという大罪で、敵対勢力に戦の大義名分を与えてしまいます。信長自身も、三好家を攻めたのは三好家が13代将軍義輝を殺害した(1565年、永禄の変)、自身の主君の仇を討ち、義昭を新しい将軍に迎えるという大義があったからです。永禄の変では、朝廷、諸大名、はたまた庶民に至るまで、三好家に対し怒りを露わにしています。また、三好氏も将軍を殺害してやろうと当初企んでいたわけではなく、近年では御所巻と言って、有力大名が将軍邸を包囲し自分の要求を突き付ける示威行為だったのが、不慮の事故で殺害してしまったという見方が有力らしいです。

信長は、義昭追放後、義昭の子、足利義尋(ぎじん)を人質として預かり、1歳で出家させます。これは、将来義尋を義昭に代わって将軍に就任させて、信長自身はその上位に立つつもりだったらしいです。事実上消滅した室町幕府を名目上も幕府機構を消滅させると、信長を倒すために挙兵する名目を与えてしまうというのを避けるためです。

本願寺から派遣された兵に護衛された義昭公は、若江城に入城します。この時、毛利輝元、吉川元春小早川隆景に御内書で援助を求めています。これにより、再起を図る第一歩を踏み出します。義昭は、兄義輝も頼りにしていた毛利氏に期待します。その時、織田家と毛利家は同盟関係にありましたので、お互い全面戦争は避けたいという考えだったようです。

織田信長が元亀から天正に改元します。これは、義昭が元亀3年に朝廷に上奏していた改元を、信長が義昭がやろうとしていたことを行った改元でした。これまで足利将軍家が朝廷に奏請して行ってきた改元を、信長が自身の権威を示すために改元した訳ではないようです。義昭は若江城から堺に移動します。毛利氏・織田氏から帰洛を求められるも、義昭は信長に人質を差し出すよう求めますが、信長の使者である羽柴秀吉が「何を疑っておいでなのか?そこまでおっしゃるなら、どことなりとお行きなさい。信長様には、公方様は行方不明とお伝えしておきます。」と拒否して交渉決裂します。毛利方の使者である安国寺恵瓊はもう一日堺にて義昭を説得するも義昭の態度に呆れ、「今後何があろうと、毛利領には来ない」と義昭と口約束をして、上洛したそうです。

さらに義昭は堺から紀伊に海路で移動、由良の興国寺に滞在します。ここで義昭は、上杉謙信に対して武田勝頼北条氏政と和睦して上洛するように命令します(甲相越三和)。また、1574年に六角義賢島津義久にも帰洛のための協力要請、信長包囲網再形成に動き出します。

一方信長は、朝廷より権大納言・右近衛大臣に任命され、朝廷の官位では義昭よりも上位となります。諸大名に対し、織田家が将軍家と対等な立場と示したことになります。

1576年、義昭が鞆に上陸

1576年、義昭は紀伊国から、備後国鞍へ内内密に移動します。この時、信長の野望シリーズにも義昭家臣で登場していた一色藤長は、紀伊田辺城に留まり、畿内との連絡役を命じられています。ところが、藤長はこの義昭の命に従わず、鞆に着いていきます。そして義昭の不興を買い、今度は義昭が藤長を追放します。許しを請うため、毛利氏に懇願する藤長ですが、義昭は許しませんでした。京都を追われても着いてきてくれた幕臣が1人減ってしまいました。

毛利氏の領地、鞆に突然漁船に乗って現れた将軍義昭。義昭は敢えて毛利輝元にも誰にも告げずにやってきたようです。何故鞆なのか、その理由は

等の理由があげられます。また、鞆の浦は、潮待ちの港として繁栄していました。

義昭は、吉川元春に命じ、輝元に幕府再興を依頼します。これを承諾すれば織田と戦う事を意味しますので、輝元は3か月苦慮しますが、信長との敵対を決意します。ここに鞍幕府が成立しました。鞆幕府の主な構成は、毛利輝元と毛利家家臣(吉川元春、小早川隆景ら)、かつての奉公衆などの幕臣、織田氏と敵対して追われた大名の子弟、芸能集団、侍医など、総勢100名以上から構成されました。毛利家家臣の多くには、本来守護クラスの者だけが許される特権、毛氈鞍覆・白傘袋の使用を許可し、守護と同格とみなされています。毛利輝元を副将軍に任じ、御内書に副える副状を作成していました。毛利軍を公儀の軍隊の中心と位置づけ、西国諸大名の上位に君臨する正当性を確保させます。

毛利氏、毛利家家臣以外での主な人物では、幕臣の主な随行者、真木島昭光を筆頭とし、一色昭秀、上野秀政、細川輝経、畠山昭賢、北畠具親、曽我晴助、小林家孝、柳沢元政、武田信景、仁木義政、六角、内藤如安らがいます。そして大可島城主・村上亮康が義昭を護衛します。

幕府の軍事力は独自に有せず、毛利氏頼みでした。義昭は上杉謙信に武田・北条と講和して幕府再興をすすめさせ、上杉氏が本願寺と講和します。その後武田氏と上杉氏に講和するよう御内書を再度下し、毛利輝元と協力して信長を討つよう命じます。戦国時代といえば、各地の大名は、幕府の言う事を聞かず好き勝手に戦っていたイメージをお持ちの方もおいでかと思いますが、決してそんなことはありませんね。まだまだ幕府、征夷大将軍の権威は、多くの大名が認めていました。

幕府の収入源は大きく、財政は潤っていた

義昭はかつて、貧乏公方何て呼ばれ方をされたことがありましたが、鞆幕府の財政は潤っていたようです。それは、決して衰えない征夷大将軍の権威です。信長勢力圏外の大名は、依然義昭を主君と認めていたようです。

毛利氏が鞆幕府を人的に、または経済的支援する為、周防・長門・出雲の寺社に郡単位で労役を負担させていました。これを鞆夫といいます。

第一次木津川口の戦いに勝利し、幕府全盛を迎える

1576年第一次木津川口の戦いで、織田水軍を破ります。この戦いの目的は、毛利軍が織田軍に包囲された石山本願寺に兵糧・物資搬入をすることでした。毛利軍指揮官は乃美宗勝村上武吉、織田軍指揮官は真鍋貞友でした。織田軍船は毛利軍の炮烙火矢で大船を全て焼かれ壊滅します。毛利軍の目的は成功し、補給路を確保します。これにより、幕府の権威があがり、全国から大名の使者がやってくるようになりました。1579年の毛利家文書より、小早川隆景が書状で義昭が鞆の浦に動座して毛利元就・隆元父子を知らない遠国の大名から音信が来るようになり、大変名誉なことだと述懐しています。出自が低い身分だった毛利家が副将軍に就任したことにより、諸大名に認められた大名の権威を得ました。

武田勝頼が上杉・北条氏と講和を承知。毛利輝元と同盟します。織田信長は二条御所を完全に破壊します。信長が義昭と和解したのち、義昭をここへ迎え入れようとしていたが、それが不可能となったと判断したためです。

信長は羽柴秀吉に中国攻めを命じます。尼子勝久が播磨国上月城に入城。毛利氏が織田方だった尼子氏との戦いに勝利します。上月城は落城、尼子氏滅亡。尼子氏の名将、山中鹿之助を捕らえて処刑しますが、義昭も鞆で鹿之助の首実検をしております。首実検とは、実際に会って本人か確かめる事です。宇喜田直家別所長治荒木村重と言った織田方の大名が、毛利氏に寝返ります。

第二次木津川口の戦い後、衰退が始まる

1578年、第二次木津川口の戦いでは、織田軍は毛利軍を退却させます。一説では、信長の野望シリーズでも登場した鉄甲船6隻で毛利軍の600隻の小早を壊滅させたとも言われています。この戦いの織田軍の目的は、毛利軍が石山本願寺への海上からの補給を遮断するのが目的でした。この戦いで織田水軍の指揮に当たった九鬼嘉隆建造の鉄甲船は、大砲を備えていたようですが、前回やられた炮烙火矢対策で本当に鉄甲で覆われていたのかなど、詳しい事は分かっていません。毛利方の水軍指揮は、村上武吉が執っていたようです。この鉄甲船をみて、退却したようです。織田方では、この戦い大勝利を収めたように言われていますが、実際はこの後も石山本願寺への補給は続いており、本願寺への補給が途絶える決め手になった勝利ではありませんでした。

同盟者であった上杉謙信が亡くなります。

義昭の命を受け、輝元が上洛に向けて出陣を決意するも、毛利氏重臣杉重良が大友家の調略により謀反します。これにより、毛利領背後の筑前・豊後が不安定になります。その為に出陣は無期限延期となりました。1579年、宇喜田直家が織田方に寝返ります。1580年、本願寺顕如が織田信長と勅命により講和し、石山合戦は終わりました。1581年、因幡の鳥取城を秀吉が攻略(鳥取城の戦い)し、鳥取城は降伏します。1582年甲州征伐で、武田勝頼が織田・徳川軍に攻められて勝頼は自害します。1582年、秀吉は備中に侵攻し、備中高松城の戦いが始まります。

朝鮮、諸外国からみた、日本国王は足利義昭だった

1581年1583年、朝鮮国王である李氏朝鮮時代の第14代宣祖から、日本国王宛に国書が送られています。この宛先は、足利義昭でした。つまり、朝鮮や諸外国から見れば依然日本の国王とは征夷大将軍である足利義昭でした。

1582年、本能寺の変でチャンス到来も活かせず

1582年6月2日本能寺の変明智光秀が織田信長・信忠を討ちます。備中高松城は講和により開城し、清水宗治が自害します。

信長の死を知った義昭が小早川隆景に備前播磨へ出兵を命じるも、輝元は講和を遵守して出兵せず。領国の動揺を鎮める事で精一杯で、出兵する余裕がなかったそうです。毛利氏は様子を見る対応を行い、それが裏目で劣勢に立たされます。山崎の戦いで羽柴秀吉が勝利すると毛利氏が、羽柴氏に急接近を図り、安国寺恵瓊が秀吉に戦勝祝いの使者として派遣されます。
瀬戸内海の制海権を掌握していた村上氏が反毛利の動きを見せ、海沿いの鞆では危険と判断し、一乗山城に移ります。近くの常国寺を御所とします。

鞆幕府の終焉

義昭が安国寺恵瓊に命じ、秀吉に帰洛の斡旋をさせるよう命じ、秀吉は承知します。1582年、常国寺では狭いということで、御所を津の郷に移動します。

1583年賤ヶ岳の戦いでは、義昭は柴田勝家に味方します。毛利氏は戦いを傍観し、義昭の出兵要請に応じません。羽柴氏が勝利し、義昭は羽柴氏を敵に回すことになります。
1585年、羽柴秀吉は関白に就任します。義昭は島津義久に羽柴氏との和睦を勧告します。1587年、九州討伐に向かう秀吉と義昭が会い、共に九州へ向かいます。義昭は、島津義久に講和勧告し、島津氏は羽柴氏に降伏します。島津氏は今でも義昭を自分の主君と認識していたようです。

1587年、義昭は秀吉と共に京都へ。これで11年続いた鞆幕府は終焉です。義昭は、山城国槙島に1万石を拝領されます。
秀吉が義昭に対して、大名にする代わりに養子にしてくれと頼んだが、義昭が断ったので関白になったという話しは後世の創作です。

義昭、将軍職を辞す

1588年、足利義昭は朝廷に征夷大将軍の位を返上し、出家します。朝廷より、准三后の位に任じられ、名を昌山道休と改めます。
1592年、秀吉から義昭に朝鮮出兵で出陣要請があります。義昭は久しぶりの大舞台に乗り気だったようですが、肥前国名護屋城へ向かうも朝鮮に渡る事無く大阪に戻ります。
1597年、大阪で薨去。享年61歳で、腫物が原因だったようですが、天寿を全うされました。

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