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日本初の競輪開催時、既に打鍾、写真判定はあった。競輪史上初の1着選手は?

競輪

1948年11月20日、小倉で日本初の競輪競走が開催

第1レース実用車競走、距離1000メートル(バンク2周)

競輪は日本発祥ですから、日本初の競輪競走は世界初の競輪競走です。競輪の始まりは、1948年小倉でした。
「ただ今から、日本で初めての競輪(きょうりん)を挙行します。」
の宣言の下、11月20日午前10時30分第1レースが発走しました。第1レースは実用車競走といい、競走用の自転車ではなく、普通の自転車を使用した競走でした。当時、競走用自転車2種類と実用車競走が行われていました。第1レースは6車立て、1着は4番車の芥禎男選手(期前・大阪)でした。芥選手が競輪史上初の1着選手となりました。芥選手の1000メートルタイムが、1分44秒2。2着立石秀雄選手(期前・山口)が1分50秒4で、2着以下引き離しての快勝だったようです。

車券の販売は単勝と複勝の2種だった

この時に販売された車券は、単勝複勝でした。100円券と1000円券が売られていたようです。払戻金は単勝式150円、複勝式4番140円、6番270円という結果でした。連勝式も、しばらくして販売を開始したようです。この頃の集計は、現代の様にコンピューターによる集計ではないので、払戻金の計算なども大変な作業だったでしょうね。

打鍾が既にあったが、打鍾のタイミングは現在と違っている

打鍾(だしょう・ジャン)は、この第1回開催から既に行われておりました。ですが、打鍾のタイミングが違います。現代の打鍾は、残り2周のバックストレッチを先頭選手が通過した時点から、残り1周の最終ホームストレッチを先頭選手が通過するまで行いますが、当時は先頭選手が最終ホームストレッチ通過の約5秒前から開始し、最終ホームストレッチ通過で鳴り終わるというタイミングで行われていたようです。

全国の競輪場で使用されている鐘は、大別して3種類あります。一番多いのは、半鐘型(梵鐘)、次に洋鈴型(青森、松戸、岸和田等)、そして高知競輪で使われている銅鑼です。

写真判定、スリッド写真も既にあった

写真技術は既にスポーツなどの分野で写真判定を行える技術を持っていたようで、競輪が始まった時点で既に写真判定を行っていたようです。

競輪の写真判定は、株式会社JPF(旧日本写真判定)が行っています。上の画像は、現代のスリッド写真でカラーの画像になっています。現在の様にデジタル化される前は、判定写真を暗室に持ち込んで現像して、それを審判室に持っていくという工程でした。その間15秒が目標だったようです。
スリッド写真にある縦の細い黒線。これは全てがゴール線を示しています。全てがゴールした瞬間の映像で、左から右に画像を重ね合わせて作ったものになります。

カメラが1台だけだと、他の選手に隠れて判定できない場合がありますので、ゴール反対側にもカメラが設置されており、死角ができないようになっています。レースとレースの間隔をできる限り縮める事が重要なミッドナイト競輪が開始されたあたりから、判定時間が非常に短くなった印象を私は受けます。

日本初の競輪選手、期前の競輪選手になるにはどのような条件があったか

競輪選手養成所、日本競輪学校ができる前に競輪選手になった場合、期前の選手と呼びます。当時は選手集めも大変だったらしく、選手になれる年齢制限は15歳以上だったそうです。最終的には日本初の開催時、50歳の選手、明治生まれの競輪選手もいたそうです。
自転車は自分で用意する必要があり、2台所持していれば1日に2レースの出走も可能だったようです。また、前検日というものがありませんので、競走開催1時間前に選手は競輪場に到着すればよかったそうです。

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