石高はゼロ、日本最北端松前藩の祖、松前慶広の生涯を紹介
蠣崎(松前)慶広の名前を初めて私が知ったのは、光栄の信長の野望全国版でした。同じだという人も多いかと思います。信長の野望全国版ではプレイヤーが選択できる大名、全50か国中第1国にあり、何となく難しそうなので選択してみた人もいるかも知れません。そしてその大名の年齢が11歳(これはあくまでゲーム上の話し)、一体どんな人物かもわからないままプレイしてました。そんな蠣崎慶広の生涯を、歴史ゆっくり紀行さんがユーチューブ動画にアップしてくださり、とてもためになりましたのでご紹介いたします。歴史ゆっくり紀行さんがこの人物を取り上げてくださったこと、とてもうれしく思います。
松前慶広像(阿吽寺蔵)
蠣崎慶広、幼名が天才丸ってすごい名前
蝦夷地では、天才という言葉が無かったのか?自分の子供の名前に天才だなんて、親(蠣崎季広)もすごい名前を付けたものですね。命名したのが季広じゃないかも知れませんけどね。しかし、将来決して名前負けしないような人物になった天才丸でした。戦国時代において天才丸の世渡りは、まさに天才丸の名に恥じないものだったということが動画で良くわかります。
秋田氏の傘下から独立、豊臣氏、徳川氏と天下の趨勢を読みつくしている
蠣崎氏はもともと、秋田氏の支配下でしたが、上手く独立を果たし豊臣秀吉、徳川家康に近づいて気に入られてます。松前藩では稲作ができない為に石高はゼロ、その代わりに蝦夷で徴税する権利(朱印状)を獲得。豊臣秀吉亡き後はすぐに徳川家康につくといった将来を見据えたその処世術は見事としか言いようがありません。日本最北端の藩主にもこんなすごい人物がいたのだと、感心致します。