GooGle翻訳を大きく上回る精度、26か国語対応の文章翻訳
機械による翻訳が、びっくりするほどに精巧にできる
自分の書いた文章を、外国語にて書く場合、翻訳サイトにたよっておられる方も多いのではないでしょうか。かつては、GooGle翻訳が他の翻訳サービスに比べて、僅かに優秀と言われていたことも有りましたが、やっぱり母国語としている人には正確に伝わらないレベルの翻訳が多かったですね。2022年現在、そのGooGle翻訳を遥かに上回るレベルで文章を多国語に翻訳できる、しかも無料でもできるサービス、DeepL翻訳を試してみました。
DeepL翻訳は26か国語に対応、日本語も使用可能
2022年1月5日現在、対応している言語は
イタリア語、エストニア語、オランダ語、ギリシア語、スウェーデン語、スペイン語、スロバキア語、スロぺニア語、チェコ語、デンマーク語、ドイツ語、ハンガリー語、フィンランド語、フランス語、ブルガリア語、ポーランド語、ポルトガル語、ラトビア語、リトアニア語、ルーマニア語、ロシア語、英語、中国語、日本語になります。これらの言語が、相互翻訳可能です。
テキストを入力する(コピー&ペーストでも良いけど)ほか、docx形式、pptx形式のファイルをアップロードして翻訳も可能です。
文字数、ファイルサイズの制限があるが、無料で使用可能
DeepLのサービスは、無料でも利用可能です。文字数の5000文字までの制限、テキストファイルの数(3ファイル)と容量制限(5メガバイドまで)があります。多くの文字数、大きなテキストファイルを一気に翻訳させるならば、有料のプランもあります。
あざす報の記事を多言語翻訳してみた結果
では、実際にその実力を試してみたいと思います。日本語から中国語(簡体字)、英語、ロシア語に翻訳し、そのロシア語を日本語に翻訳してもらいましょう。これは、他の翻訳サービスでも、翻訳が正しく行われたか試してみる方法ですね。日本語を英語にし、その英語が通じるかテストするため、その英語を日本語に翻訳させる手法です。皆さんもやったことがあるのではないでしょうかね?
日本語原文
1573年、室町幕府第15代将軍足利義昭は、織田信長との戦いに敗れて京都を追放されました。これにより一般的には、室町幕府の滅亡、室町時代終焉とされているようですが、義昭はまだ幕府再興をあきらめていませんでした。室町幕府の次の幕府は江戸幕府、いえ、その間にもう一つの幕府があります。それは鞆幕府(ともばくふ)です。頂点は、れっきとした征夷大将軍であります。副将軍に毛利輝元が就き、織田信長政権と比べても拮抗した勢力を持っていました。
信長は、義昭追放した後も、征夷大将軍の位を朝廷に求めることもなく、また朝廷も積極的には義昭に対して征夷大将軍を解任しようとはしませんでした。足利義昭は京都を追われた後も1588年まで征夷大将軍でした。1573年から後の義昭の生涯、既に40歳だった足利義昭。この時代は、人間五十年、人生最後の勝負として挑んだ、鞆幕府について詳しく調べてみようと思います。
中国語(簡体字)にDeepLが翻訳したもの
1573年,室町幕府第15代将军足利义昭在战斗中被织田信长打败,被流放出京都。 这一般被认为是室町幕府的垮台和室町时代的结束,但吉明还没有放弃复兴幕府的希望。 室町幕府之后的下一个幕府是江户幕府,但中间还有一个幕府。 这就是友伯府。 排名第一的是杰出的野蛮人幕府将军。 在森辉元担任副将军的情况下,与织田信长的政权相比,它是一个不可忽视的力量。
信长在下台后并没有向朝廷寻求世英大将军的头衔,朝廷也没有积极寻求解除义昭的世英大将军职务。 被迫离开京都后,足利义昭继续统治到1588年,当时他已经40岁了。 这一时期将详细研究友邦幕府,他把友邦幕府作为他生命中的最后一场游戏来挑战,长达50人年。
上の文章をDeepLが英語に翻訳したもの
In 1573, Ashikaga Yoshiaki, the 15th shogun of the Muromachi Shogunate, was defeated in battle by Oda Nobunaga and exiled from Kyoto. This is generally regarded as the fall of the Muromachi Shogunate and the end of the Muromachi era, but Yoshimine had not yet given up hope of reviving the Shogunate. The next shogunate after the Muromachi Shogunate was the Edo Shogunate, but there was another shogunate in between. This was the Tomobakufu. At the top of the list was the distinguished barbarian shogun. With Terumoto Mori as vice-general, it was a force to be reckoned with compared to Oda Nobunaga’s regime.
Nobunaga did not seek the title of Shogun Seiyo from the court after his downfall, and the court did not actively seek to remove Yoshiaki from the position of Shogun Seiyo. After being forced to leave Kyoto, Ashikaga Yoshiaki continued to rule until 1588, when he was 40 years old. This period would be studied in detail by the Youbou Shogunate, which he challenged as the last game of his life for 50 man-years.
上の文章をDeepLがロシア語に翻訳したもの
В 1573 году Асикага Ёсиаки, 15-й сёгун сёгуната Муромати, был разбит в битве Одой Нобунагой и изгнан из Киото. Это принято считать падением сёгуната Муромати и концом эпохи Муромати, но Ёсиминэ еще не потерял надежду на возрождение сёгуната. Следующим сёгунатом после сёгуната Муромати был сёгунат Эдо, но между ними был еще один сёгунат. Это был Томобакуфу. На вершине списка был выдающийся сёгун-варвар. С Тэрумото Мори в качестве генерального наместника, он был силой, с которой приходилось считаться, по сравнению с режимом Оды Нобунаги.
После своего падения Нобунага не добивался от двора титула сёгуна Сэйо, а двор не предпринимал активных попыток сместить Ёсиаки с поста сёгуна Сэйо. После того как Асикага Ёсиаки был вынужден покинуть Киото, он продолжал править до 1588 года, когда ему было 40 лет. Этот период будет подробно изучен сёгунатом Ёбу, который он оспаривал как последнюю игру своей жизни в течение 50 человеко-лет.
上の文章をDeepLが日本語に翻訳したもの
1573年、室町幕府第15代将軍足利義昭は、織田信長に戦いで敗れ、京都から追放された。一般には、これで室町幕府は滅び、室町時代は終わったとされているが、義民はまだ幕府再興の希望を失ってはいなかった。室町幕府の次の幕府は江戸幕府だが、その間にもう一つ幕府があった。友帛である。その筆頭が、蛮族の名将である。毛利輝元を総督に迎え、信長の織田政権とは比べものにならないほどの力を発揮した。
信長は倒れた後、朝廷に征夷大将軍の称号を求めず、朝廷も積極的に義昭を征夷大将軍から排除しようとはしなかった。足利義昭が京都を追われた後も、1588年、義昭40歳のときまで支配を続けた。この時代は、50人年という人生の最後の勝負として争った養父幕府を詳細に研究することになる。
翻訳の精度について、表音文字(英語)にすると、表意文字に直すのが難しい
中国語に翻訳したとたん、鞆幕府が友伯府にされてしまいました。日本でも余り知名度が高くはない言葉ですから、致し方ないかなとも思いますが、漢字をそのまま当てはめてくれれば良いものをとも思いますね。しかし、鞆の字は国字でした。国字とは、日本で作られた漢字で、中国には存在しません。(峠、辻なども、日本で作られた漢字で、国字です)ですから、中国語の簡体字に鞆の字がなく、仕方なく友になったのでしょうね。
そしてそれを英語に翻訳した際、しっかりTomobakufuと、正しくなっていますね。中国語、日本語の文字は表意文字で、英語は表音文字です。しかしどうして、中国語を日本語読みしたのでしょうか?他にも地名(室町)、人名、将軍を日本語読みしている理由は不明です。鞆幕府は、()で読み方を表示させているからでしょうか?
人間五十年は、最後に意味が分からない言葉にされました。信長が好きだった敦盛の有名な出だしですが、古い日本語になると思いますので、こういうのは苦手だったかな。ひどかったのは、征夷大将軍が最後には蛮族の名将と翻訳されてしまった事ですね。征夷大将軍の意味を中国語で既に野蛮人幕府将军と訳しているようです。
上記のように、日本語→中国語→英語→ロシア語→日本語と、翻訳させてみましたが、当然100点とはいかずとも、70点ぐらいのレベルにまで翻訳されているのではないでしょうか。これは驚愕に値する翻訳精度と言えましょう。